『32』雑記

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映画「聲の形」感想

公開日に聲の形を見に行ってきました。

自分は原作からファンだったので正直見る前は期待より不安の方が大きかったです。理由は原作は全七巻ですがそれを約2時間の尺に収めるというのは、自分のような素人にも難しいことだということがわかるからです。

では、実際見てきての感想をつらつら書いていきたいと思います。

まず結論から言って映画の出来は素晴らしいの一言に尽きると思っています。限られた尺におけるベストを尽くしている、流石京アニという感じでした。

ここから先は、大きく4つほどのテーマに分けて詳しく感想を書いていきたいのですがはじめに少し注意していただいたいことがあります。

それは自分が原作の大ファンであり、ある種めんどくさいオタクであるためここから先の感想で映画の批判とも取れてしまうような発言が目立つかもしれないということです。原作を事前に知っているためにどうしても「ああして欲しい」「これは入れて欲しい」という感想が絶えず出てきてしまいます。しかし、自分は決して映画を批判する気はありません。しつこいようですが映画の出来は素晴らしかったです。

また、なるべく映画しか知らない人もこの記事を読めるように原作の内容に深く触れるようなこと(いわゆるネタバレ)はなるべく控えるつもりです。それでも、多少のネタバレはございます。それがどうしてもいやな人は原作を読んでからまたこの記事に戻ってきてくださると一ファンとしてたいへん嬉しいです。

前置きが長くなりましたが話していきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

①演出や音楽について

やはり、京アニはすごいですね。

今まで、あまり多くはないですが京アニの作品を見てきてすべてにおいて言えることですが、演出や音楽によって作品がもつ雰囲気をしっかりと作り出していると個人的には思いました。

聲の形は将也が初めのうちは周りとのコミュニケーションをシャットアウトしていたり、西宮の耳が聞こえないこともありあまり登場人物同士が話すというシーンが他の作品に比べて多くはありません。

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そのため、いかに音楽を使って場を表現できるかというのは割と大きな課題だったと思います。しかし、音楽は個人的に素晴らしいかったと思ってます。

 特に、夏祭り後の西宮が自殺を図るシーン。あの場面の間や音楽のバランスが絶妙で展開を知っている自分も思わず息をのみスクリーンを凝視していました。

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②声優の演技

皆さんいい演技をしていましたが、やはりメインの2人(将也役の入野自由さんと西宮役の早見沙織さん )に絞って感想を少し。

まず、入野自由さんですが予告を聞いた時は将也の声が自分の想像より少し高くてうーんと思っていましたが映画を見てる間は全く気になりませんでした。寧ろこれでよかったなと今は思っています。将也の優しさ、弱さそういった色々な複雑な感情を抱えながら生きている1人の少年がそこにいました。

次に、早見沙織さんですがすごいの一言ですね。西宮はしゃべるというシーンは少ないものの圧巻の演技でした。特に、将也が目覚める直前橋で泣いてるシーンは鳥肌が立ちました。

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月並みな意見ですが、声が絵に命を吹き込むというのを実感しました。声優さんってすごいですね。

余談ですが、メインの2人以外のキャストは確認してなかったので結弦の声優が悠木碧さんだったのはほんとにびっくりしました。声や演技の幅が広いですね。

ほんと声優ってすごいわ

 

③映画が描くテーマ

聲の形という作品の良さは「挙げればきりがないほどにテーマがつまっていること」だと思っています。

そのため、映画という限られた尺におさめるにはテーマをひとつに絞るしかないと思っていました。また、テーマを絞ることである程度内容は大胆にカットされるだろうというのも事前に覚悟はしていました。

見てみるとやはり予想通りかなりカットされていました。大きな例をあげると映画製作などですね。他にも将也の周りの人物、特に真柴、川井、永束、佐原の掘り下げもかなり浅いものになっていました。

これは仕方のないことだと思いました。

しかし、色々カットした分映画では主に「石田(後半は西宮も)の贖罪」を大きなテーマにしてかなり丁寧に描けていたと思います。

 特に、小学校時代を丁寧に描くことで犯した罪というのを視聴者に強く印象づけているなと感じました。

 

④優等生と曲者

先程カットしたシーンの理由について色々考察しましたが、実は僕は尺の問題やテーマを絞ったから以外に大きな理由があるのではと考えています。

すごい個人的な意見になりますが僕は少し誇張した言い方をすると、京アニはアニメ界の「優等生」、聲の形は漫画界の「問題児」は言い過ぎなので「曲者」だと思っています。
だから、映画は尺の問題というよりきちっとした枠におさめるための線引きっていうのを強く感じることが多かったです。

わかりやすくいうと、尺が足りないから、テーマではないから省くというよりいきすぎた表現だから抑えられたという箇所が特に将也、西宮、植野以外のキャラの掘り下げ方で多かったと感じています。
とても大げさでひどい言い方で簡単にまとめると
真柴→正直ただのモブ
川井→千羽鶴渡したはいいけど提案したくだりがないせいで微妙
永束→メンタルの弱さや虚栄心、それへの葛藤がない
佐原→書くことが思いつかないほどに薄い

こんな感じでした。

端的にまとめるとみんな薄いという印象ですね。

植野は最初から最後まで植野のままだったと思います。もちろん、省かれたシーンも多いですが。

良くも悪くも無難にまとめられてしまったなという感じですね。いきすぎるとあまり大衆向けにならないとは思いますが、もう少し勝負しても良かったのではないかな?とは思っています。

将也の周りの人達も、1人1人が濃く色々な思いを抱えています。映画を見た方はぜひ原作で確認してくれると嬉しいです。

 

⑤ 映画だからこその俯瞰的視点

大抵の漫画がそうですが、原作は将也(主人公)の1人称視点で基本的に物語は進んでいきます。つまり、将也が見てないこと、知らないことというのは描かれないのです。(あくまで基本的にですが)

しかし、映画は基本的に俯瞰的視点で進みます。

気がついた方も多いと思いますが映画には原作にはないオリジナルシーンがちらほらありました。

その中でも特に印象的だったのは西宮が病院で診察をされてなにやらショックを受けて、家に帰ってからも少し落ち込んでいるシーンです。(時系列なのですが、ポニーテールにして橋の上で「好き」というシーンの前であることしか覚えてません。すみません。)

あのシーン、実は作者の構想にはもともとあったものの西宮視点でしか語れないエピソードのため原作ではカットしたそうです。

 僕は家に帰ってから「聲の形 公式ファンブック」を読んで知りました。

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映画を見てから本屋で見つけて買いました。コミックスと同じサイズで売っており、上記の情報は「『聲の形』一問一答」 というコーナーに書いてあります。(P138の下段Q30です)

他にも、参考になる解説が多く載っているのでおすすめです。

 

すみません、話がそれました。

公式ファンブックによると、病院で右耳の聴力がさらに低下していると言われて西宮は落ち込んでいたようです。将也の声がさらに聞こえなくなってしまうという焦りや2週間将也と会えていなかったことによって将也への気持ちが高まり、あの告白につながったそうです。

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告白のシーンといえば、ひとつだけ不満があります。

(原作ファンのめんどくさい意見なので聞き流してくれて構いません。)

告白する直前、映画だと西宮は手で自転車の後ろをおさえて将也を呼び止めます。

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ここは流石に原作通りにして欲しかったです。

原作だと大声を出して将也を呼び止めるんです。うまく言えないのですが、あのシーンは西宮が声を出してすべてを成し遂げようとする行為に意味があると思っているのでできれば変えて欲しくなったなと思いました。

もう1つ、アニメで印象に残っているオリジナルシーンはやはりラストですね。聞こえているのに、見えているのに、塞ぎ込んで他人とのコミュニケーションを避けていた将也が本当の意味で世界を見た時に溢れた涙にはグッときました。

 

 

⑥この映画は原作未読で楽しめるのか?

こういった問題は聲の形に限らず原作ありのアニメには必ずついてまわる問題だと思います。結論から言うと、僕は原作未読でも楽しめると思います。

僕含め原作を読んだ上で映画を見た方たちの多くはきっと「◯◯を省いたからこれは原作読んでない人はきっとわからないんじゃない?」みたいなことを思ったりもしたと思います。

しかし、それは僕たちがすでに知っているから生まれる考えであって最初から何も知らないで見ている人たちにとっては些細なことだと思うのです。

例えば、僕は川井さんが将也に千羽鶴を渡したシーンを見た時に

千羽鶴をつくろうとクラスの人に提案するシーンがないから知らない人は唐突に見えないかなぁ」

と少し心配しましたが、冷静に考えて見ればそういうシーンがあることを知っているから気になってしまうのであって、知らない人にとっては

「多分、千羽鶴をつくろうとしてたんだな」

くらいに捉えておわりなのだとおもいます。

もちろん、省きすぎてあまりにも突飛な展開や論理の破綻があると原作未読の人は首をかしげてしまうこともあるでしょう。しかし、この映画は省いているシーンは尺の都合上多いものの話の流れに違和感はなかったので問題ないと思います。

つまり、原作ファンから見たら少し総集編っぽく見えてしまうかも知れませんが、それはあくまで僕たちが映画で使われていない数多くのシーンを知っているからこそ生まれてくる違和感なのです。

 

⑦原作が先か?映画が先か?

僕はまだ原作を読んだことがない人は映画が先の方がいいと思っています。

先程も言いましたが聲の形という作品は様々なテーマが盛り込まれた作品です。読む人によって感じ方や捉え方もきっと多種多様でしょう。それこそがこの作品の魅力の一つだと思っています。

そして、この映画は京アニが、または山田監督が読んで感じたひとつの「聲の形」の到達点だと思っています。数ある価値観の内のひとつを映像にしたものであると。

だからまず、フラットな気持ちで京アニが伝えたい聲の形を受け止めて欲しいと思います。それから、原作を読んで自分の価値観でひとつの聲の形を自分の中でつくるのでも遅くはないと思います。

このような結論に至ったのは自分が見た時にフラットな気持ちで見ようと思っても、無意識のうちに先の展開のことを考えてしまったり、省いているシーンを気にしてしまったからです。ゆっくりと京アニが伝えたい聲の形を純粋に楽しめるのは原作を知らない人だけだと思っています。

ただ、映画から見る人にひとつだけ注意してもらいたいことはあの映画が聲の形の全てではないということです。語りたくても尺などいろいろな問題で抑えられた魅力はまだまだあるのでぜひ映画を見た後は原作を読んでください。

 

⑧聲の形という作品

長々と感想?を書き連ねてきましたが、最後に聲の形という作品そのものについて少し話したいと思います。

僕は聲の形という作品は単に障害者と健常者の関係を描いたものではないと思っています。この作品の一番のテーマは「人に伝えるといえこと」だと思っています。人に思いを伝える一番の手段は声を使うことです。しかし、西宮は耳が聞こえないことで相手の声を聞くことが出来ず、声を使って相手に伝えるのも難しい状態です。そのため、この作品では人の思いが様々な「こえのかたち」で広がっていきます。

もちろん、西宮の耳が聞こえないという設定がこういったことを伝えるためだけの道具にならないよう障害者と健常者の関係を丁寧に描いたりとひとつひとつの設定が決して無駄にならないよう、何かを伝える大事な役割を果たせるよう緻密に練られた作品だと思います。

この考えは僕が感じたひとつの結論に過ぎません。もしかしたら、僕の考えに疑問を持ったり否定的に見る人もいると思います。しかし、それでいいと僕は思っています。人によって価値観は違いますから感じることも生まれる考えも多種多様であるべきです。

だから、映画を見て原作を読んだ人には自分自身が感じた考えを大切にして欲しいと思います。

 

途中、かなり迷走しましたがここまで読んでいただきありがとうございました。